スール制について

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20071008/p1
↑これを読んだら久々にマリみて脳が回転したので。


今の学校て組織自体が、人を抑圧するものかて言うと、まあそのような事例も無いこた無いだろうけど、少なくとも物語のテーマにするほどの強度は持ってないと思います。むしろ学校にいる生徒間の同調圧力とかの方がキツかろう。
そして個人のあり方に対する上からの押さえつけがなくなった結果として、逆に個人の選択として規範的であろうと決断することが出来るようになるわけで。これは一種感動的ですよね。いままで出来なかったことができるようになった、他人の手にあったものを俺たちの手にぶんどり返してやったぜうはははは!って意味で。


んで。
リリアンとスール制て言うマリみての物語の舞台が、上のような規範的であろうとする個人的な決意を背景とした寓話、規範少女のためのファンタジー空間であるなら、スール制によって抑圧された人とかがいるわけないのです。本来なら。
けれど、いったん物語として具体化・客観化されるてしまえば、どうしたってファンタジーであるだけではいられません。もしも現実にリリアンがあったらってことを考えてしまいます。
そういう風に見るとリリアンはかなりキモイと言うか怖いというか、そりゃたしかに同調圧力がキツかろう、抑圧されている人もいるだろなと推測されます。
その辺の歪みをごまかすために、規範の中核にいながら規範に縛られることの無いファンタジック生命体福沢祐巳を登場させて規範の善性を保証させるみたいな仕組みが必要になるのだろうし、また巻数が進んで歪みも大きくなれば不器用姫みたいなブラック短編を書いてバランスをとらなければならなくなるのでしょねたぶん。


それはそうと蓉子さまの話がしたい。


スール制の持つパンキッシュな側面は、上記のように、規範的であるかどうかはあくまで個人の選択として行なっとんのじゃい!てのと、それからもうひとつ、その意味の無さがあると思います。
規範的であることの問題点はすでに広く認識され、内面の自由こそが称揚されています。世間との折り合いは法律を守る程度にとどめ、自分自身だけの個性と可能性を花開かせたいわけです。
また今の世の中は豊かですから、働いたら負けかなみたいな自爆系ロッケンローラーでもそこそこ生きていけるというか少なくとも即死はしないと言うか、場合によっては積極的に評価してくれる人すらいるかも知らん世の中であるわけです。
なんにせよわざわざ個人の主義として規範的であることを選ぶ必要性なんて無いわけで、というかむしろ弱肉強食な世の中をわたっていくには不利益ですらあるかもわからんわけで、でもそういったものを、前述したようにあえて選択する。
この無意味さはCOOLですよね。


こうした選択性と無意味性を強調しているのがスール制の持つ馬鹿らしさです。自分の姉貴だか従姉妹だかが、ロザリオの授受によって疑似姉妹関係となり「お姉さま」とか、そんなこと言い出したら僕なら指さして笑います。下級生を教育するにせよもっとまともな方法があるでしょう常識的に考えて。本人が趣味でやってるとしか思えない。
この辺、道士郎でござるとも通じますね。あれは米国ネバダ州からやってきた武士の話ですが。


さて、一匹狼だった佐藤聖山百合会にいるってのは確かにあえて選んだ感が強いですが、しかし一方で聖は居場所を得ることで救われている部分もあり、そうするとスール制の無意味さと言う点ではちーと弱い。
むしろ中等部から入学のストレンジャーでありまた端から出来がいいのでスール制に救われている部分の少ない水野蓉子のほうが、スール制の無意味さ、馬鹿らしさを表していると思う。
また、普段は堅物すぎて一歩ひかれちゃうんだけど体調不良でボーっとしてたら女の子がいっぱいよってきて苦笑みたいなエピソードをかんがみるに、蓉子が固いのは趣味どころでなく蓉子が蓉子であるからこそであり、そして自分自身であるが故に不利益をこうむる事すらあるわけです。
蓉子は山百合会の実質的なリーダーと言う立場にありながら、たとえそれゆえに不利益をこうむってもどうしようもなく自分自身を貫かずにはいられないロッケンローラー人生であり、俺の中の分類だと吉良吉影とか桜野タズサとか坂本ジュリエッタとかと同じ箱に入ってる人物であり、その屈折具合は聖の及ぶところではないと思うのです。


蓉子さまラブ。