『日常』ってどこがどー面白いのか、あるいは『日常』と『エアマスター』と破壊される物語たち

えー。
みんな大好きポストモダンギャグ『日常』に関して、このへん↓のエントリを読んでて思ってた事があるので書きたいと思います。

その出来事が、日常を今までとは根本的に違う〈日常〉へと一瞬で書き換えてしまう。
その〈日常〉では、コケシとか、赤ベコとか、終いにはもっと最悪な生ものとしてシャケとか、日常にはあり得ないようなものが平然と降ってくる。それはまるで、ヨウ素とか、セシウムとか、終いにはもっと最悪なものとしてプルトニウムとかが降ってくるくらいのあり得なさで、だ。

http://d.hatena.ne.jp/ill_critique/20110405/1302010227

つまりは、これは、既に非日常がありえないことを知ってしまった世代が、いつまでも続く日常の中で、それぞ前提として「日常をずらす」という意味でギャグをやっているわけだ。「終わりなき日常」の中で、日常をずらすことで日常をベースに非日常を体感する。。。って、考えてみれば、ギャグと親和性が高いのもうなづける。

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110512/p2

自分的には、『日常』が、リアリティ(現実)→物語→不条理ギャグという軸を見つけ出せたのは、非常に秀逸な気づきだった。

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110514/p2

日常系のはなし

いわゆる日常系の作品における、「馴染みがあって不快な刺激も少ないけど、面白みがなくて息が詰まる灰色の日常」にどんなふうに色彩をのせていくかという課題には、自分の見た感じ3つの対策の採り方があるようです。


ひとつめが、日常やりこみタイプ。些細な事物やちょっとした出来事を密度高く詳細に、瑞々しく描きこんでいく事で、その風景に読み取れる情報の価値と量を増大させて読者・視聴者をひきつけます。よつばと!が典型っスね。ここに描かれているもの達は個別には些細過ぎてより大きくドラマチックな物語の流れとは接続されません。


ふたつめは、関係性強化タイプ。結び付けられたキャラクター達の、関係性萌えとシチュエーションコメディを順繰りにくりかえす事で情報をどんどん強化していくやりかたです。背後に流れる時間と時間軸に沿ったドラマチックな物語は強く抑制された描き方をされますが、まったく無視されるわけでもないので、時にその景色には独特の風情が宿ります。代表作はけいおん!でしょうか。


みっつめが『日常』が採用しているやり方になります。物語破壊タイプと自分は仮称してます。灰色の日常に突如として励起したわけのわからん物語を即座に打ち砕き、全体をギャグとして処理します。この方法によって実現される日常の豊かさは前2者と比較してより狂騒的です。ドラマチックな物語が描かれる事もありますが、途中でへし折られます。
なお、この場合の“物語”という語は、『日常』のフェイ国パート第1回みたいなまさにストーリーをなしているフィクションである事もあれば、笹原先輩が自分はどのように振舞うべきであると信じているか―などという個人の“信念”とほぼ同義なもの、あるいは自動販売機は期待される機能を正常に果たすべき―なんていう“常識”とほぼイコールなものも、あわせて表すものとして使用させていただいていますので注意してください。
あ、『日常』は非現実すぎるので日常系ではないという立場の人もいると思いますので、あわせて男子高校生の日常を物語破壊タイプの日常系作品として挙げておきますね。これがまたすげえ面白いんですよー。

エアマスター』のはなし

さて、突然ですがここでちょっとだけ『エアマスター』の話をしたいと思います。なんでかというとこの『エアマスター』という作品、『日常』と同じような世界観を基盤にしていて、同じようなところから作品の面白さを引き出してきているからです。と言いますか、格闘マンガである『エアマスター』を、面白さを維持したまま日常系作品にまで縮小してみたのが『日常』であり、『エアマスター』がわかれば『日常』もわかるのです。


『日常』は1巻の初版が2007年の7月ですが、『エアマスター』は1巻の初版が1997年7月、最終28巻は初版2006年6月、掲載誌はヤングアニマルです。作者はいまヤングジャンプで将棋バトルマンガ『ハチワンダイバー』を連載している柴田ヨクサル
作品のジャンルとしてはトンデモ系ストリートファイトマンガで、作者の表現力と演出力、個性的なキャラクター、予想のつかない展開、時代性を背負ったテーマが高いレベルで融合した傑作です。まあ序盤と終盤は面白さが若干微妙なのがネックなんですが、面白いときのエアマスター』は人類史上でいちばん面白いエンターテイメントなのでおおむねオススメです。

さて、作品の面白さの構造って連載が続くにつれてちょっとずつ変わっていくものですから、今回は『日常』と関係してくるようなポイントを3つの時期から取り上げてみます。


ひとつめは最序盤から最初の長期エピソードストリートファイター四天王編」にかけて。
主人公の相川摩季は体操選手としての将来の夢を断たれ(身長が184cmもあるので)、時を同じくしてコーチでもあった母をガンで亡くします。宙ぶらりんな気持ちで街を彷徨っていた摩季は、ふたつの出会いによって心の平衡を取り戻します。ひとつが女子高生四人組(それこそ『けいおん!』のようなノリの)の友達グループに入ったこと、もうひとつがストリートファイトに参加するようになったことです。体操の経験をいかした空中戦を得意とするストリートファイターエアマスター”と呼ばれるようになった摩季は、ストリートファイター四天王とそのリーダー格である坂本ジュリエッタとの戦いに身を投じていきます。“爆殺シューター”坂本ジュリエッタは作品屈指の人気キャラクターで、即死エンカウントな通り魔系悪役、コイツの前に立つとストリートファイターも女子高生も会社員のおじさんも、区別されることなく前触れもなしに30mくらい蹴っ飛ばされます。見知った世界が崩壊する恐怖を象徴するキャラクターですね。
ポイントをまとめると以下。
1 慣れ親しんだ日々は崩壊する。そしておそろしいものが顔を出す。
これをポストモダンがどうの、大きな物語が云々という語り方をすることも出来るでしょうけど、ここで述べたいのはこれが作品の面白さのソースになっているということです。見知った世界の崩壊も、見知らぬ訪問者も、ともに強い恐怖を呼びます。そして、制御された恐怖ほど良い見世物はありませんし、軽度の異常事態は笑いを呼びおこします
こうした、平穏な日々と水面下でそれを脅かす恐ろしいもの、という構図は90年代の広範なホラーブームや、その延長の現代伝奇ブームでも面白さのソースとして取り入れられていました。


「黒正義誠意連合編」「女子プロレス編」は割愛させていただきまして、次は『エアマスター』の最長エピソードである「深道ランキング編」
謎の怪しい男“深道”が主催し、全国にネット中継されているストリートファイトランキング“深道ランキング”に誘われた摩季は、つぎつぎにあらわれる強くて個性的でテンションMAXな深道ランカーたちと戦うことになります。
連載も長期化しますと、作品の構図にも変化が出てきます。初期には日々の生活を脅かされる側であった摩季は、しだいに敵キャラとイーブンな立ち位置になって行きます。というか、主人公としての特権性も含めるとむしろ摩季の方が他人の努力を次々に叩き壊して回っているように見えるんですよね。
ちょっと具体例をはさんでおきますと、すでにランキング11位にまでなっていた摩季は女子高生四人組に付き合って入った格闘ゲームのイベントで、偶然ランキング6位の駒田シゲオとエンカウントします。ちなみにこの駒田シゲオはその後もたびたび登場して、個人的にエアマスの中でも1・2を争う好きなキャラです。シゲオは摩季に自分が格闘ゲーム“バーチャルファイティンガー”のメインキャラ“アキオ”のコスプレイヤーであり、常軌を逸した筋トレと鍛錬の積み重ねにより“アキオ”の必殺技を全て再現したこと、“アキオ”の強さを現実で証明するのが自分の目標であることを語り、摩季に戦いを仕掛けます。明らかに馬鹿なんですがその実力は本物です。ですが、シゲオは摩季の初披露の新必殺技の餌食となりたった1秒で敗北してしまいます。
シゲオはシゲオで“アキオ”こそが最強、という「物語」を背負ってるんですよね。でもそれは彼の個人的なものであって他には共有されないので、主人公である摩季と戦ったりするとその「物語」は破壊されてしまいます。
で、これが面白さのソースです。まずわけのわかんない「物語」を全力で主張するところが、どっかズレていながらも熱さが感じられて面白く、続いて頑張って主張した「物語」が盛大に叩き壊されるところがまた面白いのです。これを『魔法少女まどか☆マギか』風に“希望と絶望の相転移なんて呼んでみてもいいかもしれません。
まとめると以下。
2 共有されない物語が励起する。そしてそれは破壊される。
なお、「深道ランキング編」がもうちょっと日常系寄りになった、街を徘徊する悪党や変態の繰り出すボケを、主人公がツッコミたおしていく、という話の類型として『でろでろ』や『天体戦士サンレッド』、あるいは『魔術士オーフェン無謀編』などがありますね。


エアマスター』という作品の特徴として脇役のキャラが立ちまくっているという点がありまして、連載の長期化とともに群像劇の様相を呈すようになります。だれもが主人公の摩季に匹敵するロングスパンの物語を持つようになり、それらの物語がお互いにぶつかり合います。典型が「黒正義誠意連合編」のボスである北枝金次郎と「女子プロレス編」のボスだったサンパギータ・カイの激突であり、やがて深道ランキングはその集大成たる「深道バトルロイヤル」へとなだれ込んでいきます。
このあたりはもうほんとに面白くてねー。バトルロイヤルって独特の浮遊感・多幸間・お祭感覚があって、この状態がずうっと続けばいいのにって思いますよね?そうした楽園化するバトルロイヤルという発想は、ともに学園キャットファイトマンガである『美女で野獣』や『はやて×ブレード』に、よりはっきりと見つけることができますよ。
さて、「深道バトルロイヤル」ですが、あろう事かだれもラスボスに勝てなくて、ラスボス以外が全滅して終了します。主人公含めて、全員負けちゃうんですよね。でも諦めたくなかった深道は、今度は自分も戦うと宣言してまだ戦えそうなストリートファイターを数人集め、パーティーを組んでラスボスに最終決戦を挑みます。作中で最後のイベント「深道クエスト」です。このときランキング元5位“忍者”尾形小路が、バトルロイヤルでも1・2を争うだろう無惨な敗北をした男が、ふたたび立ち上がる時の演出がキレキレで、あれはもうきっぱりと感動しました。震えましたね。
このあと深道はラスボスをなんとか倒すんですけど、こいつがまたバーサクモードで復活します。それまで気絶していた相川摩季がここで目覚め、深道につらい時でも誇りを持っていきられるなら「そしたらきっと 楽しいぞ」と呼びかけられたあと、全力疾走から飛び蹴りをかましてラスボスを沈めます。そのあとなんやかやあってエピローグ。
まとめます。
3 誰もが敗北するけれど、死んでいないならまた立ち上がる。そして生きることは楽しい(本人的にも読者的にも)。
ええとですね、励起した物語が打ち砕かれるのが楽しいんだとして、じゃあ負けたら死んじゃうんじゃあつまらないんですよ。なんどでも立ち上がって何度でも打ち砕かれてもらわないと。そして物語が打ち砕かれる事が珍しい事じゃあないのなら、それはもう日常の一部だっていえますよね。
また、『エアマスター』のストーリーも後半になるにつれて、主人公がストリートファイトにどっぷり使っていくため、ストリートファイトは非日常として機能しなくなっていきます。さらに非戦闘時も含めての同じ街を舞台にした群像劇が描かれる事、テーマが一般人キャラへも適用可能な形で一般化して語られる事により、学生生活とストリートファイトをひっくるめた全てが摩季と作中世界の「日常」となっていきます。


こうして出現したあたらしい「日常」を、バトルなどは取っ払って日常系のレベルにまで規模を縮小しつつ、しかしその面白さと面白さのソースは同じところから引っ張ってきているのが『日常』だと言えると思います。「日常」≠「平穏」であり、それぞれの物語を壊したり壊されたりすることを織り込みながら続いていくのが「日常」です。

『日常』のはなし

以上を踏まえたうえで、『日常』で印象に残ったエピソードをいくつか取り上げてみましょう。
まずは3巻の表紙。いきなりエピソードじゃないですけど。『日常』の単行本の表紙イラストは、1・2巻では単に日常に異物が混入している様を描いたものですが、3巻以降は帯を活かしたものに変わってきます。帯をめくると中之条くんが死んでる4巻表紙のストレートさや、ささやかながら現実感を根底から覆す6巻表紙も良いですが、特に好きなのは3巻表紙ですね。怖くて。
3巻の表紙は職員室の様子を描いており、おかしな点は桜井先生の机の上にでっかいたけのこがひとつ置いてある程度です。が、帯をめくるとそこには無数のたけのこが……。怖!怖いよ!皆さんご存知のとおり無数に湧いてくるたけのこは桜井先生の斜向かいの席で新聞を呼んでいる高崎先生が「ほいきたー!」ってなったときに現れるスタンドで、言わば彼の男根の象徴です。それが桜井先生を取り囲んでいる……。さ、桜井先生逃げてー!!
これはもうサイコサスペンスの一種ですよね。隣人が殺人鬼だったりストーカーだったり。高崎先生は吉良吉影と同じジャンルといっていいでしょう。あ、理科の中村先生はストレートにストーカーですね。悪質な。
帯をめくるとパンツが、とか不遇キャラが、とかなんて言うネタはよくありますが、水面下から平穏な日々を脅かすなにかがあらわれることの表現に活かしているのは実に『日常』らしい工夫であるなと思います。
なお、平穏を破壊するような怪異が帯下に隠れた結果、帯びの外にも多少は描かれている、平穏を破壊するほどではない小さな怪異たちの意味づけも変わってきます。それらは現実の豊かさとわけわからなさを、ちょっとだけFT寄りに表現したもの、森見登美彦作品によくあるような愉快な異物となって行きます。和のテイストが感じられるのも森見登美彦的ですねー。


続いて1巻「日常の1」。東雲なのが通りがかった男子学生と衝突して大爆発する話ですね。作中最大のカタストロフが第一話に描かれ、その後の話はすべてこの爆発を乗り越えた後のことなのです。大爆発を見てシンプルにアンゴルモアの大王セカンドインパクトを思い起こしてもいいですし、冒頭に爆発というと『AKIRA』、カタストロフ後の世界ということなら『マッドマックス2』『バイオレンスジャック』『北斗の拳』『スクライド』あたりでしょうか。
さて「日常の1」は極めて深刻な大事故でしたが、以降の作品はより日常的な事故・悲劇を描いています。たとえば「日常の12」。ゆっこがウインナーを落とす話ですね。中之条君の髪にウインナーが突っ込んだ時のゆっこの表情はまさに悲劇的、しかし何やかやあったあとゆっこは3秒ルールを適用し「セーフ」と宣言します。そこにみおが「アウトだよ」とツッコミをいれます。ここはアニメでも名シーンでした。そう、ひとはいつだって事故や悲劇を乗り越えながら毎日を生きているのです。でも振り返ってよく考えるとそれは「なんかもう一杯一杯アウトだよ!!!」なのかも知れませんね……。
カタストロフを迎えた後も日常は続いていくという事と、日常がその中に悲劇やらなんやらを内包している事は表裏一体です。“軽度の異常”ってギャグとイコールなので読者的には笑い転げられますし、仲のいい友達がいたりなんだりでそんな日々を肯定できるなら、それを笹原先輩風に「奇跡の連続」と呼ぶのもありですよね。


ついでに“ゆっこ”こと相生祐子と長野原みおのキャラの区別についても。二人とも基本的にはツッコミではありますが、ゆっこは思考よりも行動が先行する冒険野郎タイプなので、そのぶん何か失敗したり、現実とコンフリクトして打ちのめされたりする機会が多くなります。犬も歩けば棒に当たるというやつですね。失敗する話で代表的なのが「日常の67」の喫茶店エスプレッソを頼む話、現実に打ちのめされる話の典型は「日常の85」の勉強したくなくてのたうちまわる話、あとは「日常の71」の財布を落とす話も大傑作ですよね。
一方で妄想気質のみおちゃんはバカキャラのゆっこよりももっと内面を描かれる機会が多く、自分の中で勝手に物語を加速させたりそれを打ち壊されたりする機会が多いです。BL系の妄想と笹原先輩への片思いが両輪ですが、「日常の86」でくさやジャムを食わされた時には走馬灯を加速させており、この辺がアニメの「第2話」で「日常の15」のネタをやったときに追加のネタとして活かされていました。


前後しますが1巻「日常の7」、シカと校長の戦いをゆっこが目撃する話。これはもうシンプルに、典型的な学園伝奇ですね。ハイスクール牡鹿バスター(←うまくない)。平穏な日々の裏側でおこなわれていた暗闘を目撃した女の子が、世に知らしめる機会があったにもかかわらずそれを胸のうちに収めるくだりに旨みがありますよね。


とんで4巻「日常の53」、ゆっこ・みお・水上麻衣 の3人娘が階段でグリコをやる話。はじめは平和にグリコをやっていたのが、ゆっこが“グリコのおまけ”などと地方ルールを使い、それを見たまいちゃんが“ちたにけらはとほらすてのはてきらとなりはしてと”とドラクエ復活の呪文を持ち出すにいたります。これはゆっこが“互いに共有されないルール”を堂々とつかったため、まいちゃんがそれを盛大に拡大解釈した、というネタですが、「現代社会に適応した新しい形の認識形態であり、超正気とでも呼ぶべき精神構造」とか言いたくなります。「日常の28」とかでツッコミ待ちでボケまくるあたりもバットマンにかまってほしくてたまらないジョーカーを連想させますし。


つづく「日常の54」。ゆっことみおの絵しりとり。これは超低レベルなお互いの思考の読みあいであり、零落した『DEATHNOTE』デスね。ノートとペンを使うあたりもそんな感じ。


やはり4巻から「日常のショート5」の最後のネタ「無敵星人」。これもシンプルながら凄い好きですね。物語が事故る話の典型です。ゆっこが紙袋をかぶって無敵星人を名乗り、「無敵星人はあらゆる攻撃を受けても無敵なのだ―――!!!」と言った次の瞬間、野球ボールが。大き目のコマでアップになるゆっこの悶絶顔。どこからか「その幻想をぶち殺す!」という声が聞こえてきそうです。


一方、物語も必ずしも打ち壊されてばかりではありません。強く想えば奇跡を起こすことも時にはあるのです。そんな5巻「日常の74」。髪型はモヒカンだけど真面目でやさしく、でも根っこのところはやっぱりどうにもロッケンローラーな中之条くんが、霊の存在を否定するために近所のお寺の住職に会いに行く話。物語を全力で体現すれば、時にはなにかを突破することが出来るかもしれません。それが別に突破しなくてもいい壁で、その物語を本当は全然信じていないのだとしても。


さて、以上で示してきた『日常』におけるギャグは、物語の破壊や衝突をテーマとしたものです。そして、『日常』以外のギャグマンガにおいてもしばしばそうではありますが、特に『日常』におけるギャグは当事者のキャラクターが真剣でなければ面白くありません。本来もっと大きな規模で演出してもおかしくない事件を日常系のレベルにまで縮小しているために、その真剣さまで縮小しているわけではない事をはっきり示さないといけないのです。本来であれば、当人が真剣・全力・切実であるがゆえのズレ感とやりすぎ感、つまり“シリアスな笑い”と呼ばれたであろう事態の、そのシリアスさを担保するものが必要です。そしてこの点に限って言えばアニメは原作のマンガよりも適したメディアであるといえるでしょう。声がついているからです。
動きがついていることは一長一短でしかありません。どっちかといえば長所が優りますが特筆するほどではない。でも声がつくことは大きいです。リアリティと表現力のこもった、七色の悲鳴が聞けるのですから!もちろん悲鳴にとどまらず、怒号、罵声、ツッコミなどもそうです。それらが『日常』における悲劇に真剣みをもたらし、また物語を破壊するカタルシスにより強いインパクトを与えてくれるのです。
そんな声がつくのが良いところという観点から言うと、アニメ化が楽しみなエピソードは3巻「日常の46」ですね。ゆっこが間違えて焼き鯖を買ってくる話。「ペソしかないよ!」。うはー、これは見たい。

まとめ

『日常』は事故も悲劇も織り込みながら続いていく日常を、ややFT寄りに表現した物語破壊タイプの日常系作品です。おおむね成長物語である『けいおん!』よりもこっちのほうがこころのふるさとであると思う人もたくさんいるのではないでしょうか。というか僕はそうです。
先回りして断っときますと、物語を叩き壊して回るこの手の作品は、そりゃーたしかに発想からして金持ちになれなそうです。6巻「日常の92」、奨励賞が夢まぼろしだったりですとか。仕事の出来る人ほど楽しみ方がわからないのではないかとすら思います。でもこれはあくまで日常系作品であり、暇な時に読んでこころのふるさとに帰れば良いのです。んでもっとたんぱく質っぽい作品が読みたいなーと思ったらそのときは『ログ・ホライズン』とか読めばよいのです。ログホラは、あれは確かにべらぼうに面白かったので。


そんなこんなを考えますと、日曜の昼にニコニコに『日常』があがってくる事や、いまこの時期に「日常を取り戻そう!」というキャッチコピーを掲げている事なんかに非常に肯定的な意味を感じられるのではないかーと思いました。


以上です、ながながとすいません。読んでくれてありがとうございました!