天気の子と変わっていく世界

天気の子見ましたー。おもいがけずめちゃめちゃ良かったです。

 

映画の結論的な部分の前提となる「世界なんて最初から狂ってる」って認識はたとえばあらゐけいいち『日常』(1巻が07年)なんかに見られるもので、ああいう狂った世界を生きていく子供たちを肯定的に描く話はすごく好きだし、ひとを元気づけるものがあるし、あれを話のオチにしても十分に趣味の良い作品になると思うんですけど、『天気の子』は2019年の作品なのでもう一歩踏み込んでいました。

ラストで「世界の形を変えてしまった」「陽菜さんのいる世界を選んだ」という事を帆高くんが再認識する直前の陽菜さんの祈りがマジでよくって、須賀さんの「世界なんか最初から狂ってる」って発言にまあそうかなって思いながらスクリーンを眺めてると祈る陽菜さんが目に入るじゃないですか。叫びそうになりますよね。うわっめちゃめちゃ気にしてるじゃねーか、真面目ないい子だな、帆高くん何とかしてさし上げろ、って。

須賀さんが3年ぶりに会った帆高くんにかけた言葉は、3年間ずっと付き合いのあったであろう陽菜さんにも伝えられてないわけないし、それでいて、連絡もなしに帆高くんが陽菜さんを訪ねたら空に向けて祈ってたってことは、陽菜さんは須賀さんの言葉に納得せず肩の荷を下ろすことなく、3年間毎日のように祈っていただろうってことじゃないですかー。それがあの瞬間にわかる。

そんで帆高くんが「世界の形を変えてしまった」「陽菜さんのいる世界を選んだ」ことを再認識しつつ陽菜さんに駆けよって「僕たちは大丈夫だ」ってなって終わるわけですが、何が大丈夫なんだってたぶん既存の世界全体に対峙・対立するんじゃなくて変わっていく世界に参加し作っていく立場に移動したとこだろうと思います。

陽菜さんと帆高くんの世界との対立の発端には違いがあって、まず陽菜さんは母親を失っています。母(の愛)を失ったことで世界の過酷さにむき出しでさらされることになるのって『エアマスター』の相川摩季とか『ガールズ&パンツァー』の西住みほとかが思い起こされますね。同時に、たくさんの赤の他人の願いを一人で引き受けて自分自身を失ってしまうのは『魔法少女まどか☆マギカ』の鹿目まどか的でもあります。

一方で帆高くんは光に誘われてろくな準備もなく地元を飛び出したあげくごみ箱の中から重要アイテムをゲットする男であり、あいつ退廃の魔都新宿を訪れた勇者であり蛮人コナンであり高貴な野蛮人でありバイオゴリラなんですよね。現代社会の中に生きているようで生きていない。なのでチャカを拾わなくてもいずれポリに追われることになったと思います、彼。

そんな二人が世界と対立することなく、変わりゆく世界を作っていく主体となる、その重みを分かち合うことができる、というのがラストになるわけですが、ただし、それはあの二人が世界の中で唯一の特別な存在になるわけではないんですよね。陽菜さんと帆高くんの世界に対する責任感を肯定しつつ、それは東京という一都市が沈んだことの、さらにその部分的な責任であって、彼らの結論の前提としての須賀さんの「世界なんて最初から狂ってる」という認識も全面的に覆されるわけではない。それは同じ世界に『君の名は。』の主人公である瀧・三葉夫妻が存在していることからも読み取ってよいと思います。『アベンジャーズ』などとはまた違った形での、ヒーローたちがたくさん存在する世界の在り方ですね。

 

さてさて、陽菜さんと帆高くんの世界に対する前向きな責任感みたいなやつを素直にいい話だなと思えるのは3つポイントがあると思って、1つは上述のそれでも他者のささやかな幸福を願う陽菜さんの純粋な祈りの美しさ、2つ目はいわゆる中間項の無い座組を用意したことですね。

世界にありように対する責任感の先にちょっとでも具体的な立場・主義・組織が提示されると、まあもちろんそういうのは大事なんですけど、好悪や異議が爆発的に発生すると思うので、具体的な行動に移る前の段階のあくまで観念的かつ根源的なレベルでのそれに留めてあるのは、青春エンタメとしてうまく処理してあるよなと思います。

んで3つ目のポイントですが、世界はいきなり変わったわけじゃなくて徐々に変化していったしこれからも変化し続けていくであろうってとこです。3年間、いやそのもっと前から降り続ける雨のために東京は沈み、それでいて都市の機能はそれなりにしぶとく維持されているようでもありました。

比較しうる作品としては、例えば『ベルセルク』では新世界の訪れはごく短時間のうちにドラスティックに行われました。また、『シン・ゴジラ』でも都市は一夜にして焼き尽くされ、打倒された後もゴジラはいつかまた訪れる破滅の象徴の岩めいた塊として都市に生きる人々と共存していくこととなります。

一方で『天気の子』では、世界は一夜にして滅ぶのではなく徐々に変化していくもので、そしてその変化はこれからも続いていくであろうことが、降り続く雨に沈む都市という形であらわされます。

大事なのはこれからもこの世界は変化していくだろうというところです。否応もなく変わっていく世界の中で、そこに生きる青少年には、変化していく世界におし流されるのではなくその世界の一部として、世界を変えていく主体として、元気に、なおかつ他人のささやかな幸せも大事にしつつ、生きていってほしいものであるなあという願いが『天気の子』の結末にはあり、新鮮だし好感持てるなあと思いました。

 

そのほか何か言いたいことはありますか?

・ネタばれ無しで10秒で説明してと言われたので「『君の名は。』は彗星のケアをする係のひとたちの話だったけど、『天気の子』はこいつらが彗星」って言いました。

 

・陽菜・帆高の存在を削ったうえで夏美・凪で『天気の子』をやると『ペンギン・ハイウェイ』になるのでは?

 

・取材を受ける気象庁の職員がジブリの棒読みのお父さんめいた眼鏡で印象に残るというか好き。

 

・大物めいて登場する瀧くん、立派な大人になりやがってつまんねーなもっとキョドれ、と思わなくもない。

 

・警察や児相は敵役になるのでちょっと割を食ってる感はありましたでしょうかね。でもまあ帆高くんがバイオゴリラなので共存できないだけで、彼らも少々配慮は足りないものの悪意で動いてるようには描かれてませんでしたからね。ポンパドール刑事とか大好きにならざるを得ませんし。

『ニンジャスレイヤー』の現行シリーズである第4部が、『天気の子』と同様に変わりゆく世界に生きる若者たちの話なんですけど、変化した世界における警察官たちを中心にしたエピソードなんかもあって、その辺の視点のおきどころ多さは連作短編の『ニンジャスレイヤー』ならではの手厚さかなと思います。