ハウルの動く城評

ハウルの動く城 [DVD]

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ハウルの動く城1  魔法使いハウルと火の悪魔 (ハウルの動く城 1)

ハウルの動く城1 魔法使いハウルと火の悪魔 (ハウルの動く城 1)

手抜きだの逃げだのといって宮崎駿の堕落を主張する向きもありますが、それはちょっと気が早いです。宮崎駿はこれまでずっと質の高い作品をつくってきたわけで、本作がつまらんものだったとして、それは宮崎駿がいつもどおり真剣に作品を作り、けれど失敗したのだと考えるのが正しいです。宮崎駿はまだ信用していいと思います。

原作との関係

本作は戦争エピソードを無理して突っ込んでいるため原作からかなり変化しているますが、逆に変化していない点を数えると、魔女宅やコナンなどと比べてはるかに原作の影響が強いことが分かります。わかりにくいと評判なのも、戦争エピのおかげで描写や説明が吹っ飛んでいるにもかかわらず原作の設定や伏線の多くが変わらず残っているからです。また、隣国の王子が登場即フラれたことや、王子が「心変わりは人の世の常」とソフィーとハウルも末永く幸せに暮らすとは限らない事を示している事、そしてこのエピソードの少々強引な挿入は、原作の「おとぎ話のパロディ化によってステロタイプやレッテル貼りからの開放を描く」という原作の特性のフォローであると考えられます。

ところが原作者ダイアナ・ウィン・ジョーンズ宮崎駿とはかなり異なったタイプの作者で、それがよく表れているのが主人公のソフィーです。
ダイアナ・ウィン・ジョーンズはたくさんの優れたファンタジー小説を書いているますが、それらは、ファンタジーに関する知識を生かした批評的な作品・どたばたコメディ・児童文学・少女小説の4極を行ったり来たりしており、原作版ハウルはなかでもどたばたコメディと少女小説の特性が強い作品です。そして少女小説としての特性ゆえに、作品内では登場人物同士の関係やその内面が重要な要素となってきます。
さらに、主人公ソフィーは原作においては3姉妹の長女ですが、ダイアナ・ウィン・ジョーンズも、両親に半ばほったらかしにされた状態で、3姉妹の長女として妹たちの世話をしながら少女期を過ごしています。また、ジョーンズは原作版ハウル出版の2年前には、体を壊して杖なしでは歩けない状態になったりもしており、ソフィーにはそのような作者自身のリアルな体験が封じ込められているわけです。


さて一方の宮崎駿はというと、例えばこのインタビューを見てみましょう。
宮崎駿監督、ヴェネチアにておおいに語る。」第5回
http://www.1101.com/miyazaki/05_1113.html

「ダイアナさんの本は僕はほとんど読んだ事なかったんですが、映画つくり終わってからいっぱい出るようになって、ずいぶん読んだんですけどね」

「僕はダイアナさんの本を読んだおかげで自分の母親の謎が少し分かったような気がして」

おーそーいーよー!!!!


人物の内面や女性の描写は宮崎駿の不得意分野であり、ナウシカのような聖女キャラは言うまでもなく、キキなんかも少女の成長物のテンプレからそう逸脱しているようには思いません。
その宮崎駿がソフィーというキャラクターを描くというのは大変な挑戦であったと思います。
最終的にいつもの宮崎ヒロインになっているあたり成功したとは言いがたいと思いますが、内面を直接アニメーションに変換する映像表現は素晴らしかったですし、得るものは大きかったんじゃないでしょうか。


とまあ、原作を宮崎駿がどう描くかって言う視点で映画を見ると別の意味でハラハラドキドキで面白い、という話でした。別にニヤニヤしながら見ても良いですよ。

戦争エピについて

サリマンの「くだらない戦争を終わらせましょう」という台詞には確かに唐突さを覚えました。ただ、この台詞は戦争の終了そのものを指しているわけではないです。
また、サリマンは権力者の象徴であり、戦争を象徴しているのはむしろハウルです。「守りたいものができた」といって戦いに行くのはハウルであり、その結果傷つくのもハウルです。


ここでいっぺん原作版ハウルを振り返ってみます。

「これはあかがね色よ」ソフィーは答えて、思いました。見たところハウルはたいして変わってないわね。心臓が戻ったからには変わるかと思っていたのに。せいぜい目の色が少し濃くなって、ガラス玉というよりは普通の目らしくなっただけね。「誰かさんと違って、この髪は生まれつきなの」
「どうして生まれつきなんてことをみんながありがたがるのか、わからないね」と、ハウル。これでソフィーにも、ハウルの性格がちっとも変わっていないことがよくわかりました。
魔法使いハウルと火の悪魔』p.299

「僕たちって、これからも一緒に末永く幸せに暮らすべきなんじゃない?」ハウルが本気で言っていることは、ソフィーにもよくわかっていました。一緒に暮らすとなれば、何事もなく幸せに暮らすおとぎ話とは大違い、もっと波乱に満ちた暮らしになることでしょう。でも、やってみる覚悟はできています。
「それって、ぞくぞくするような暮らしだろうね」ハウルがつけ加えました。
「あんたは私をこき使うんでしょ」とソフィー。
「そしたら僕の服という服を切りきざんで、思い知らせておくれ」とハウル
魔法使いハウルと火の悪魔』p.300

引用部分から、原作版ハウルでは、個性の違う二人がともに暮らしていくことがハッピーエンドとなり、それを支えるのは、それまでの物語で描かれたソフィーの激烈なコミュニケーションであることが示されます。
一方映画版ハウルではソフィーの髪の色の変化に対応して、ハウルも黒髪に戻っており、ハウルの心が変化したことがわかります。
しかしながら、目を覚ましたハウルのダルそうな様子やそのあとの歯の浮くような台詞、ラストの空飛ぶ城にまだ砲塔もどきがくっついていることは、ハウルの心の変化していない部分を表しているように思えます。
考えてみると、この映画において、どんな人物も否定されてはいません。サリマンも荒地の魔女も滅ぼされるべきラスボスとはなりませんでした。(ただしすべてを統制しようとするサリマンだけは一緒にやっていけんと城の外に置かれていますが)
「守りたいものができたんだ」のハウルと、「あの人は弱虫でいい」のソフィー、言ってみれば男性原理と女性原理の2つの世界にすんでいる二人が、安易にお互いを否定せずにともに暮らしていく、そしてそれは『もののけ姫』のサンとアシタカよりもずっとずっと近い距離、頻繁な交流の中でも可能であるってのが『ハウルの動く城』をとおして宮崎駿が得た結論ではないでしょうか。


ただ、実際に起こってしまった戦争をとめるために、2人にできたことが何も無いってのは確かに問題ですね。これは戦争というテーマがどうこうと言うよりも、大状況をごく少人数のヒーローが何とかできるっていうフィクションを宮崎駿がもう信じられなくなってるって事ですね。前述したラスボスの不在もあわせて、ラピュタみたいなまっとう且つ能天気な話は今後もおがめそうにありません。