まつろわぬアイドルが見たければ沖津区へ行け!『メロディ・リリック・アイドル・マジック』とライトノベルの描くアイドルたち

劇場版アイカツスターズが予想の10倍くらい面白かったのでようやく長かった無印アイカツロスの日々を抜け出せたような気もする今日この頃、みなさんいかがお過ごしでしょうか。
殺人的な暑さと台風が交互にやってくる日々が続いていますが、そんな人類に優しくない8月末の来たる25日(木)、石川博品の手によるアイドルラノベメロディ・リリック・アイドル・マジック』のkindleでの配信が始まります。
書籍の刊行からは2ヶ月近く経ってますので、この機会にある程度ネタバレもしながら、この作品の特徴について考えてみたいと思います。


なお最初に断っておきますと、自分はアイカツとプリパラのアニメはすごく好きなんですがゲームの方はプレイしたことがありませんし、アイドルマスターラブライブやWUGも履修しておらず概要しか知りません。
ですんで以下の記事についてアイドルものの作品群についてもっと詳しい方々の意見/批判を頂ければ幸いに思います。トラバや引用RTのように嬉しいものはなかなかないですから。

作品の概要

高校進学にあわせて東京都沖津区の学生寮に引っ越してきた主人公その1 吉貞摩真(ナズマ)。ところがそこは、思いがけずもアイドルだらけの伏魔殿だったのでした。
そんな学生寮でナズマが出会ったのが主人公その2 尾張下火(アコ)。友人の飽浦グンダリアーシャ明奈に誘われてアイドルに挑戦することになったアコは、ナズマをマネージャーに、またナズマの先輩の津守国速をプロデューサーとして巻き込みながらライブの成功を目指すことになります。
しかし、ナズマとアコはそれぞれに抱えた秘密があったのでした…、といった話。


作者の石川博品は2009年にファミ通文庫の新人賞から共産圏風異世界における異文化コミュニケ学園コメディ『耳刈ネルリ御入学万歳万歳万々歳』でデビューした、ライトノベル冒険家を自認する才人です。デビュー作とそれに続いた耳刈ネルリ3部作は3冊揃うとラノベにおけるオールタイムベスト級の大傑作であります。
またネルリ完結以降も、トルコ風の大帝国の後宮の女御たちの野球と出世に懸ける日々を描いて異世界の空気を見事に出現させた『後宮楽園球場』、共同体の秘儀としての剃毛を軸にお嬢様女子高でのさまざまな事件と感情を美しい文章で綴った『四人制姉妹百合物帳』といった傑作を世に送り出しています。
最高にポップでパンクでキュートで完成度の高い『メロディ・リリック・アイドル・マジック』は、『後宮楽園球場』や『四人制姉妹百合物帳』と並んで代表作と呼ばれるにふさわしい傑作と言えると思います。

まつろわぬアイドルたち

さて、メロリリの特筆に値する見所として、登場するアイドル達の反体制性があります。
芸能事務所やアイドル学校やゲームシステムといった、アイドルが所属し彼女たちを管理している組織や仕組みとどのように向き合っていくかというテーマは、アイドルを扱っている作品においてしばしば取り上げられるところですが、メロリリほど反体制に振り切っている作品はなかなか見かけません。
メロリリにおけるアイドルってアイドルといっていいのかすらよく考えるとよくわからないと言いますか、少なくとも芸能事務所やゲームシステムによってアイドルであることを保証された存在ではありません。
ラブライブにおけるスクールアイドルとはだいぶ近い存在だと思いますが、スクールアイドルがそれなりに世間に認知され、まがりなりにも学校という公の機関が関わっている存在であるのと比べると、はるかにアイドルとしての保証のない、おぼつかない存在であると言えます。
ですんで一番近いのはプリマックスにおけるアイドルと言えるでしょうか。プリマックスの3人もアイドルとして保証されない存在ながら、己のカワイイだけを信じて作中のアイドルシーンに殴り込んでいきます。

しかし、プリマックスとくらべてもメロリリの連中のメジャーシーンに対する反抗的な態度は際立ったものがあります。


メロリリにおけるアイドルの反体制性を際立たせているのが、作中におけるLEDというアイドルグループの存在です。
物語の非常に重要な舞台背景となっているLED、それは多くの衛星ユニットを従え全国的なネットワークを誇る体制的大人気巨大アイドルグループであり、言うまでもなくAKB48をモデルにしたものでしょう。
そのLEDに対して、メロリリに登場する主だったアイドル達は敵意を隠しません。隠さないっていうか殺すって言います。「LEDのメンバーは見つけ次第殺す」。
プロデューサーのクニハヤ先輩がジョークとして「沖津区ってのはアイドルかギャングになるしか出世のチャンスのない街だから」なんて言ってましたけど、メロリリにおけるアイドルはパンクロッカーかギャングスタラッパーのようなイメージで描写されているように思われますね。
また、主に描かれる高校生たちはキラッキラしてますけど、遠景に描かれる世界は猥雑さを受け入れた世界観になっているというか、下世話なネタもポンポン飛び出しますし、『はぐれアイドル地獄変』の連中が背景で走り回ってるのが目に浮かびます。

メロリリにおけるアイドルはまつろわぬアイドル、さばえなすアイドルであり、こうした反体制的アイドル観は、オルタナティブな価値観を模索する中高生を対象とした文芸としてのライトノベルらしさであると言えるでしょう。

沖津区という舞台について

メロリリにおいてアイドルがアイドルであることを支えているのは、アイドルであろうとする本人の意思とファンの視線、そして土地の霊力です。
そも、現代におけるアイドルを取り扱った作品ではしばしば、どんなタイプの女子もアイドルになりうるし、往来を歩けばアイドルの原石との出会いが待っている、そんな地にアイドルの満ちた世界観が共有されているように思われます。
メロリリもまた地にアイドルの満ちた世界観を踏襲していますが、それを作中世界に根付かせるにあたって“沖津区はアイドルかギャングになるしか出世の機会のない街“というジョークを経由させるあたりに作品のカラーが出ていますね。


また、地にアイドルの満ちた世界は、超常要素こそありませんがある種の異界であり、異界の描きこそ石川博品という作家の最も得意とするものであります。東京都中野区をモデルとして詳細に設計され描写される沖津区のテーマパーク的な魅力は、なんの根拠もなくアイドルとして振舞おうとする女子校生たちの存在と活躍に対する説得力として機能しています。このへんのテーマパーク性はプリパラにおけるプリパラという舞台に近いものを感じますね。

視線の双方向性

さて、メロリリという作品では、男子がわりと重要なポジションについています。ていうかボーイミーツガールであり恋もあります。アニメ版デレマスじゃなくてマクロスΔくらいの男子の扱われ方なのです。

こう言うと百合過激派の方からの「まったくもう、これだからライトノベルの後進性!」という声が聞こえてくるようですが、ちょっと落ち着いて聞いていただきたい。
導入で男子の視点から入っていくのは少年向けラノベレーベルのダッシュエックス文庫から刊行されているがために要請されたものかもしれません。ところがメロリリは、その後は章ごとにナズマの男子視点とアコの女子視点を交互にとりあげて物語を進めていく、『なぎさボーイ』と『多恵子ガール』みたいな趣向を設けた作品になっているのです。
メロリリは一人称で記述される小説であるため、マクロス△等と比較してもよりW主人公それぞれの内面が詳細に描かれる作品となっています(ちなみにアコの内面のおもしろカワイさはすごい)。
また同時に、アイドルを目指す女子たちの姿と、彼女たちと歩を合わせてマネージャーへとジョブチェンジしていく男子の姿も客体として描かれており、距離感が近すぎる男子勢の描写は女子視点からすれば当たり前のように性的です。


ナズマやアコの一人称による記述は、アイドルを客観的に眺めるだけでなくその主観に入り込み、アイドルとして生きる、もしくはアイドルとともに生きるという視座を提供しています。
また、メロリリの持つ視線の双方向性は、登場人物たちに主体・客体両面からのキュートさ、可笑しみ、うれしくもなやましい青春のキラキラ感を男女の別なく付与して、『僕らはみんな河合荘』とか『WORKING!』とか『ここはグリーン・ウッド』みたいな女性作家の書いた男子が視点人物のコメディみたいなテイストを生んでおり、メロリリっていう作品の魅力のひとつとなっています。

僕らはみんな河合荘 1 (ヤングキングコミックス)

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文章によって描かれるアイドル

メロリリはラノベであり、文章という媒体によって表現される芸術です。
アイドルのアイドルたる瞬間であるライブパフォーマンスは、アイドル本人に歌と音楽とダンスとステージエフェクトの加わった総合芸術であり、それはアニメやゲームのような視聴覚メディアによってこそ十全に表現されるものであるかもしれません。
でもそれって超常バトルとかが題材のラノベについてもおんなじことが言えますよね。マンガやアニメの方が得意そうな題材にわざわざ文章媒体で挑むってのは、ラノベのそもそもの出発点であって、前提として無茶が要求されてることはラノベの魅力の根源の一つだと思います。
メロリリでは3度のライブが描かれます。
まずはアコ視点から。ライブの観客として客観的な視点から、先輩アイドルグループ“世界°”を筆頭とする沖津区のアイドルたちのライブの熱狂を活写していきます。
次はナズマの視点。アコとアーシャの初めてのライブ活動を、きわめて抽象的な表現を用いて、マジで感動している人間の内面に没入しながら描きます。また、ナズマの特異な共感覚によって光や図形として表される歌と音楽は、アイカツにおけるアイドルオーラ/ステージエフェクトを模したものであると思われ、これによってメロリリはゲーム的でヴァーチャルなアイドルものとの接続がなされています。
そして3度目は再びアコ視点。文章媒体の内面への没入を描く際のアドバンテージを生かしながら、アイドルとして舞台に立つものの主観にたって見渡されるアイドルのライブのありさまが、たくさんの歌詞の断片をはさみこみながら描かれ、あわせて作品のテーマやドラマの消化も行われ、厚みと広がりのある盛り上がりを見せるのです。
ライブの表現の魅力という点では読んでいて傑作バンド小説の『グラスハート』を思い出したりしました。

アイドルとそのライブを描くにあたって作者がどれだけの技巧と策略を尽くしたのかは、作品のとりわけ大きな見所であると言えるでしょう。

終わりに

メロディ・リリック・アイドル・マジック』は石川博品作品のなかではメジャー感があってひとに勧めやすい作品だと思います。
とはいえそれなりにひねりのある作品となっていることもまた確かなので、アイドルを取り扱った作品をマジで好きなひとにとって実際どれだけツボを突いた作品となっているのかは正直よくわかりません。
でも石川博品はテーマに対してすごく真摯な作家なので、アイドルとはいかなる存在なのかというテーマが作中でくり返し問われることになりますし、そうして描き出されるのは、アイドルへの、いまここにある生命への、そしてこの世界のいつかどこかで何に保証されることもなく燃焼しているすべての生命への肯定と祝福であり、それはアイカツやプリパラ等にも通底しているメッセージであると思います。
オススメの作品なので気になったら是非読んでみてくださいね。


※なお、もしメロリリが面白かったらその次は後宮楽園球場に進むと良いかなと思います。あれはあれでドルアニメ性のある作品だと思いますので。