しかしどうも僕は忍法が好きでないのかもしれない。忍法によって引き起こされた話の展開のほうは楽しめるんだけど。たぶん理屈がない術が多いのがイヤなんだろうな。
これは現実感のだしどころから来てる問題。伝奇は最終的に動かしがたい歴史的事実の中に納まるから無茶をまとめられる。一方で全編ウソばかりであるファンタジーでは、各ネタごとに背景となる神話やファンタジーの古典、あるいは類感・感染呪術のような素朴な魔法感覚が存在しないといけない。逆に最近の電撃とかが地に足つかないオレ理論魔法でやっていけるのは舞台が現代であるか、少なくとも現代の思春期心性をテーマに取り込んでるからでコレはむしろ伝奇に近い。つーか現代伝奇とか新伝奇とかって言葉もあるし。
で、僕は背景のある魔法が好きなんだよね。これは完全に好みの話です。
さてさて、ファンタジーも伝奇と同様にウソをモトネタでまとめるという構造を有しているのであればデスね、当然同じような逆転勘違い馬鹿も登場するわけです。「どうせモトネタがあれば纏まるんだから後は無茶してもいーんじゃね?」 それが古橋秀之。もっと限定するならケイオスヘキサ3部作ですね。痙攣的に繰り出される大量のネタが脳髄を揺さぶる古橋の代表作。デビュー作とその続編がいまだに代表作なあたり“ザ・もうちょっと売れたらいいのにね”古橋らしいです。このケイオスヘキサに代表される古橋的方法論に従えばですね、たとえ大仏がドロップキックかましても、仏足跡だよ仏足跡!敵の体に千幅輪相を刻みこんだんだよ決まってんだろ!!と言われると読者はなんとなく納得してしまうというわけです。するわけないだろ。