下の記事を読んでオモタ事2つ


http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20090210/p1

櫛枝さんの人格の分裂に対するスタンスを3つに分類するよ。

その1 あれは作者と作品の都合だよ。分けて考えた方がいいよ。
・こういう正直さは好き。無理のある深読みを聞かされると換気の悪い部屋にいる時みたいな気分になる。


その2 リアリズムだよ。現実の人間てそんなもんだよ。
・人格に一貫性を求めるのは幻想だよ路線?これまたぶっちゃけた感じがしていいですね。


その3 みのりんは情緒不安定な子。おちゃらけてるのは心の鎧。
・解釈による燃え*1キャラの発見。上の2つとは逆に、俺の読みがいちばん面白いから事実!という、無理を通せば道理引っ込む的ゴリ押しが気持ちいい。どうせフィクションなんだからそれもありだよね、綺麗に筋が通るなら。


「で、どれを採用するの?」
「全部。3つやそこらの視点なら並列して取り扱える程度の器用さは自分に期待したい」

「ライトさ」ってなにさ

思うんだけど、ライトノベルの「ライトさ」と言うものは、作品と作品世界における全体的・統一的なものが後退したことで生まれるものでさ、それによって↓

作者が書きたいテーマに沿った語りが突然入って、それと萌え的ラノベ恋愛的な描写との齟齬が、どう軋みをあげようが、そこはスカッと無視して突っ走ってるような。


といった作品作りが許容されるようになるんじゃないだろか。


ラノベはキャラが立ってるのが特徴だけど、実のとこキャラだけじゃなく、作品を構成する要素はみんな、作品から自立した面白さを持つ可能性がある。戦闘城塞マスラヲとかそんな感じ。


これは、
リナ・インバース1巻からメチャ強だったこととか
・ 富士見ファンタジアの人気作が同じ作品世界内でリアリティのレベルが違うシリアス長編とギャグ短編を平行して展開したこととか
・ 微妙にSFラノベが流行った時期以降の飛び道具と化す世界設定とか
ドクロちゃんが切り開いた萌えカオス路線とか
てな流れの中で出来上がってきたもんで、「ファンタジー」でも「ヤングアダルト」でもなく「ライトノベル」と称される事や、なぜにあんなに制約の多いライトノベルがしばしば“何でもあり”だっていわれるのかの理由になると思う。

*1:情報の連結による快楽の増加