初伝奇。ある意味では。
以前『十兵衛両断』を読んだとき、面白いことには面白いのだけれどどうもMAXに楽しめた気がしなかったのですよ。どうにも釈然としない敗北感が残ったのでリベンジをねらっていたのだけれど(『くノ一忍法帖』と『伊賀忍法帖』もいまいちのれなかった)、この本でそれがようやく果たせたようです。こいつはおもしれー。「甲賀南蛮寺領」「剣鬼喇嘛仏」「伊賀の散歩者」あたりが特にお気に入り。
さしあたり表題作の「剣鬼喇嘛仏」から手をつけてみたのだけれど、“遠距離射精”のくだりでまず呆ける。なんだろね、まだ人間に可能なレベルで意味のわからないことをやってるから上滑りせずにポカーンと出来たのかね。なんにせよこの感覚を大事にしていけば、僕はこれから伝奇と戦っていけると感じた、確信した。
喇嘛仏の話を続けると、例の忍法を噛ませてからそのままロードムービーに突入して唖然。普通は進まない方向というかそこに道があることすら気付かないようなところにノータイムで踏み出すもんだから後になって「あれ?何でこんな事になってるんだっけ?」と困惑することになります。これは英雄の仕事ですよ先生。あと道中の描写そのものがムチャクチャ面白いのが何より素晴らしいところであります。
「伊賀の散歩者」は全編乱歩ネタづくしの怪作。でもオレ乱歩ほとんど読んだことねーよ。どこから手を着けるといいのか誰か教えてください。
で、いっとう気に入ったのが「甲賀南蛮寺領」。オチがさ。オチが。最後に現出する異空間に修辞表現じゃなくて眩暈がした。現実が非現実的になっていく感覚は以前読んだホーソーンの短編とか思い出したけど、足元が崩れていくような強烈な皮肉はSFに多そう。『猿の惑星』とか。あとウルガンチーノ神父がカコイイ。


現在は『かげろう忍法帖』を読んでます。面白い面白い面白い。思うに『十兵衛両断』は素人にはお勧めしかねるものであったのではなかろうか。しかし今の僕なら荒山徹先生にも戦いを挑めそうです。ながらくの重荷が下ろせました。よかったよかった。

しかしどうも僕は忍法が好きでないのかもしれない。忍法によって引き起こされた話の展開のほうは楽しめるんだけど。たぶん理屈がない術が多いのがイヤなんだろうな。
これは現実感のだしどころから来てる問題。伝奇は最終的に動かしがたい歴史的事実の中に納まるから無茶をまとめられる。一方で全編ウソばかりであるファンタジーでは、各ネタごとに背景となる神話やファンタジーの古典、あるいは類感・感染呪術のような素朴な魔法感覚が存在しないといけない。逆に最近の電撃とかが地に足つかないオレ理論魔法でやっていけるのは舞台が現代であるか、少なくとも現代の思春期心性をテーマに取り込んでるからでコレはむしろ伝奇に近い。つーか現代伝奇とか新伝奇とかって言葉もあるし。
で、僕は背景のある魔法が好きなんだよね。これは完全に好みの話です。
さてさて、ファンタジーも伝奇と同様にウソをモトネタでまとめるという構造を有しているのであればデスね、当然同じような逆転勘違い馬鹿も登場するわけです。「どうせモトネタがあれば纏まるんだから後は無茶してもいーんじゃね?」 それが古橋秀之。もっと限定するならケイオスヘキサ3部作ですね。痙攣的に繰り出される大量のネタが脳髄を揺さぶる古橋の代表作。デビュー作とその続編がいまだに代表作なあたり“ザ・もうちょっと売れたらいいのにね”古橋らしいです。このケイオスヘキサに代表される古橋的方法論に従えばですね、たとえ大仏がドロップキックかましても、仏足跡だよ仏足跡!敵の体に千幅輪相を刻みこんだんだよ決まってんだろ!!と言われると読者はなんとなく納得してしまうというわけです。するわけないだろ。

そういやもうすぐ古橋先生の新作が出ますねえ。
ブラックロッドに影響を受けて鋼屋ジン氏がクトルゥー×巨大ロボがコンセプトのデモベを生み出し、それを原作にフルハシがデモンベインvs火星人で対峙するというステキ因果。
あれだ、SOS団とかいらなくね?ナチュラルに不思議なんだけど世の中。人間の頭なんてどんどん変になっていくべきだと思うよ。

出ましたね先週の魔人探偵脳噛ネウロ。脳みそいじって肉体強化。これこそ電人HALのもっとも恐るべき能力であります。
現状HALがやってるのは一般人を電子ドラッグで狂化させることに留まっていますが、いずれはハナから頭がおかしい人にさらに電波パワーを追加し、今までよりもひとつ上の世界に行き着く事になるのは、まあすでに決定済みであると考えてよいでしょう。
さて、HAL先生のキチガイをハイパーキチガイにしたうえで刃物以上のものをくれてやるぜ計画ですが、キャラ格から考えて、XI、アヤ・エイジア、早坂兄弟は被験者にならんでしょうから、候補はそれ以下の中クラスの変態ということになります。
というわけで、そうした犯罪者たちがどのように強化されすぎるかについて考えてみました。

デイビッド・ライス

かの国の人が超人的な力を得た場合のサンプルは十分にあります。とくに“力を手に入れたものにはそれを行使する義務がある”ということわざが思い起こされ、デイビッド君もまた伝統のプロテスタンティズムに則り、自らの艱難辛苦などには鼻も引っ掛けずに己に与えられた使命を遂行してくれるものと期待されます。
「僕はキャプテン・ステイツデース」「チーム・ステイツのメンバーは募集中デース」「思い上がった黄色人種どもには3度目の神罰を与えマース」
「私の体は祖国ステイツの将来の為に捧げたものだ。つまり私の一部を奪い取るということは祖国ステイツの一部を奪い去るということだ!その罪は重いっ!!!」
最期は領空を侵犯して米軍に打ち落とされるといいんじゃないかな。

至郎田正影

現代人は家畜化された存在であり、また家畜の中で最も栄養状態のいい家畜であり、食の千年王国を目指す至郎田シェフがその味を知らないとはちょっと考えづらいです。ただ問題なのはそれをすると警察に捕まってしまうということであり、シェフが道を究めるには警察から逃げ切ることの出来る強靭な肉体が必要だったのです。フゥ〜 フゥ〜 クワッ。
最終的にはお客様にご自身のお肉を召し上がっていただくのがベストではないかと思います。なんかほら、動物の母親も自分の胎盤食ったりするし。
最期は自分を食い尽くして口だけ残して消えるのがいいんじゃないのかな。

ヒステリア

人に伝えたいことがあるのならもっとはっきりと伝えるべきだと思います。とりあえず街頭に立ってみてはどうでしょうか。街角でマイクを持ち、切々と思いを訴え、自らの考えを世に問う。そうやって理論面を押さえてもらってからおもむろに実践編をぶっちゃけるのです。それから時限爆弾のような迂遠なことはせずに最終兵器彼女で行きましょう。美しい彼女にはすそからミサイルこそエレガント。
あとヒステリアにはお子さんが二人いらっしゃるはずでこれをドラマに活かさない手はない。再開させてみたらどうなるか確かめてみるべきでしょう。以下予想。
① 2児の母ヒステリアは突如罪の意識がめばえる。
② 旦那が来て嫁に殺られる。
③ 血は争えない。子供もぶっちゃけである。
最期は自爆するのがいいんじゃないかな。思うさまぶっちゃけて下さい。

鷲尾正勝

今のネウロに足りないものがあるとしたら空だと思うんですよ、空。あれだけ空間をダイナミックに使ってるマンガなのに空から襲ってくる敵がいないなんておかしいですよ。そこで鷲尾を起用。ヴァルチャーの首を脳内で鷲尾に挿げ替えてみよう!うわ、すっげむかつく顔になった!!
空飛ぶ変態。変態が編隊。Ⅴ字編隊になって飛来する鷲尾とその配下の巨鳥たち。墜ちたる雛はいま王となり帰ってきた!危うし東京!危うしネウロ!これが緋地獄群鳥拳だ!!
最期は墜落して鳥葬の憂き目にあうのがいいんじゃないかな。
ステキ鳥葬マンガ→http://gogotibet.moe-nifty.com/blog/2005/03/post_2.html


噛み切り美容師と竹田刑事はちょっと思いつきませんでした。なんかいい事考えたら僕にも教えてね。なお、どの狂人もろくに謎とか生み出しそうにないのは仕様です。ご了承ください。


結論私見ですが、ネウロという作品ははじめ犯人が隠されていて、それを一見普通の人の容疑者たちの中からずばり指摘するところと、それによって犯罪者の隠れた本性があらわになるところに他の変態マンガとは違う独自性があり、ミステリ形式をとっている意義があるのだと思います。悪も変態も普通の人と切り離せないところにあるというのが90年代以降の作品が持つ感覚ですね。だから上に書いたことは全部メモリの無駄です。
あとそのうち谷仮面とかウルティモ・スーパースターみたいな終始仮面をかぶってる変人が出てくると思いますよ。

そういやアイホシモドキが終わっちゃいましたね。スゲー好みだったのに。モドキ君の幸不幸表裏一体型人生がスゲー好みだったのに。
作品のほうもなかなかよかったと思うんだけどなあ。特に最終話で百人一首にちょっと手を加えてまったく別のゲームにして見せた手際は見事だった。
チャンピョンのなんとなく復活パターンに期待。
あとあの作者『きせかえユカちゃん』の東村アキコの弟さんらしいよ。まじでか。