続・君の後ろに武士がいる

http://d.hatena.ne.jp/hatikaduki/20051015の続き。
初トラバももらった事だし、もうちょっと書いてみる。



先月書いたように、道士郎と健介のあいだには「たとえすぐそばに相手がいなくても、常にその存在を感じ、相手の信頼に恥ずかしくない行動をする」と、「たとえ証拠がなかろうと相手が見えないところで頑張っている事を信じる」という2つの形をした信頼があります。


そしてこの「いま/ここにいないヒーロー」への信頼は、人の心と心のあいだにある断絶を埋め、多神教の日本には無い普遍的な神の目に代わって僕らを見守り、そして“ヒーローなんかいやしない”という少年マンガが直面する現実に対して「ヒーローはいるよ!ちょっと遅刻してるだけで!」と強弁することを可能にします。
こうしたこの世の空白を埋める観念が「武士」なわけです。


話を少年マンガに絞れば、現代の少年マンガは90年代の前半に一度完成されてるんです、多分。でも完成されたからこそ、それが物語に過ぎない事がわかってしまいました*1。またここ十何年かで、現実世界にも不況やら酒鬼薔薇やら9.11やらといったいろんな事件があったわけです。
そんな状況において、それでもなお説得力を失わない少年マンガを描こうと、多くのマンガ家が奮闘しています。
その中で西森博之は、現実にはいないヒーローという存在を描くことを、ヒーローがヒーローたるべき場所に「ヒーローがいない」という事によって解決してみせたわけです。


あと「道士郎でござる」は道士郎と健介のW主人公制ですよ!大事なのはこの二人にとっては、お互いがお互いのヒーローになってるってことです。マンガの中でがんばってる道士郎なり健介なりは僕らにとってのヒーローですが、道士郎や健介にとってのヒーローは殿・健介あるいは武士・道士郎です。そして彼らが彼らにとってのヒーローのために頑張って生きて行けるのなら、僕らも僕らにとってのヒーローのために頑張って生きて行けるかもしれない、そのヒーローの連鎖が、「世直し」であるわけです。


続編書きました
http://d.hatena.ne.jp/hatikaduki/20060114

*1:2chの〜によくある事スレ等