マリみては「社会」の「型」に奉仕するか


■[文学]冲方丁にとって「マリみて」とは何か
http://d.hatena.ne.jp/tach/20060217/1140154008


えー、「型」を破壊しない文学もあるんじゃないですか?『罪と罰』なんかは「主人公は真人間になれました」って話ですし。たぶんそういうのがはやる時期なんでしょね。不況とか経済自由化とか大きな物語の喪失とかで先行き不透明な感じですし。そもそも破壊するべき「型」が発見できねえという。
新しい「型」を考えたり、形骸化した「型」に血を通わせなおしたりして、先行き不透明な世の中に行くべき道を示すのが作者的なテーマだと思いますが。ライトノベルの、というよりはジュブナイルってジャンルの生き方指南的な側面の表出でしょう。
マリみて」の他だと「道士郎でござる」とか「仮面ライダー響鬼」もそういう話なわけで。「平凡な僕」がどこかから見守ってくれる人を得て、確かな一歩を踏み出す、みたいな。武装錬金ピリオドもですかね。最終的にカズキは日常へと帰り、パピヨンは都市伝説になった。二人でワンセットの僕らのヒーロー。
あと子供のためとか社会のためとか言い訳してるのは作者であって作中の人物はちがうはずで。登場人物たちはただひたすら生きたり迷ったりしてるだけで、でもそこに一つの関係の形が誕生するところが奇跡的なわけでセンスオブワンダーな感じに感動のしどころです。マリみての登場人物も、誰もが一般的なスールのありかた(なんてものは実のところありはしないんだけど)から少しずつはずれていて、そこで自分たちなりの関係を結べたり結べなかったりするところにスリリングな面白さがあるわけです。


あと道士郎でござるなんかは、混迷した世の中に新たな秩序をもたらすはずのヒーローが、平凡な僕にとっては制御不能の変態にしか見えないってのが逆説的で面白いところですね。