トップ2の話とその前置き

仮の神さまをたてる話


・「万能のヒーローは存在しない」「正義は共有されない」と言う前提に立った上で万能の正義の味方を描こうとすると、必然的に「何もしない」「何も言わない」存在になる。
・正義が共有されない以上、主体的に動く奴はみんな悪党。逆に言うと、この手のキャラは聖性への納得感を出すために、代償として徐々に主体性を奪われていき、ついには死亡して完全に客観的な存在になる。善いヒーローは死んだヒーローだけなんだぜ。
・具体例を挙げると『ダークナイト』のバットマンとハービー・デント。
バットマンは自らに「不殺」を科して、犯罪者の処遇の決定権を放棄している。ヒーローとしては不能と言えるんだけど、それゆえぎりぎりなんとか正義の看板を背負える。
・ハービー・デントは、傷も汚れも無い真の希望の光となるためには、人間としての彼自身は葬り去られなければならなかった、と言う例。


・「何もしない」「何も言わない」ヒーローは無力かと言うと必ずしもそうでなくて、ヒーローの影響力自体は残されている。
バットマンはどこからか悪を監視している恐怖の存在になる事によって、個人の手の届く範囲を超えた抑止効果を及ぼしている。ハービー・デントは希望の光としての社会的機能を果たす。
・どちらにせよ、ヒーロー自身が何かをするのではなく、世の人々がヒーローの視線を自分の脳内で勝手に捏造し、それを内面化してしまうことで、世の中を変えていく存在だ。ヒーロー自身に実体が無く、そのあり方を個人個人にゆだねているが故に、その正義は個人的な信念を越えた普遍性を得ている。
・これは、効能の薄れた一神教的な神さまや、あるいは世間さまというものの、代替物をたてよう、と言う話だとも言える。


・日本の作品で言うと『道士郎でござる』『トップのねらえ2!』『サマーウォーズ』がドンピシャで該当、『武装錬金』は最終回だけこのパターンで、『デスノート』も多少関連があるかな。
・日本だと、一時流行ったバトルロイヤル系の話へのカウンターとして、というかむしろそういうのを全否定はせずに補足を加えていくような意図で、この手の類型が採用されているように思われる。

道士郎の話


・『道士郎でござる』の桐生道士郎は、能力の高さのわりに意外と大事なところでは役に立ってなくて、そのうえ彼の説く武士道はあまりに説明不足で意味不明だ。それゆえ一面としては「何もしない」「何も言わない」ヒーローとみなすことができる。
・一方で、道士郎は普通ちょっと考えられないようなところにひそんで悪党を脅かし、また証拠も無いのに主人公やそのほかの人のことを信じてくれる存在でもある。いないところにいて、見えないものを見る道士郎は、逃れる事のできない絶対的な他者からの視線として機能する。
・これは悪の方向には悪党の世界観に他者性・公共性を導入し、善の方向には世の人が自分の精神に善事をなす動機、いってみりゃヒーロー回路を形成させるきっかけとなる。


・一方で個人としての道士郎自身には、やはり一人の人間としての限界がある。
・謎の勘違い武士である道士郎に関わって以来、「殿」として扱われるようになってしまった平凡な高校一年生の小坂健助は、いろいろあって「VS級長会編」において道士郎抜きで多数の不良たちおよびそのリーダー格と戦わなければならなくなる。
・このとき道士郎ももちろん襲い来るヤンキーをばったばったとなぎ倒しているのだけれど、結局道士郎が健助に追いつく前に悪の親玉は逃走してしまう。
・ここに、健助の置かれた「ヒーローはやってこないがそれでも戦う」と言う状況と、道士郎の置かれた「ヒーローにはなれないがそれでも戦う」というもうひとつの状況が表裏一体のものとして出現する。
・道士郎は役に立てなかったのでかなり落ち込む。だれの役にも立てないなら頑張らなかったのと同じである。その行為からヒーロー性は失われる。
・しかし道士郎の影響でヒーローへの道を踏み出した健助は、「なんだかわかんないけど、道士郎は疑う余地も無いよ」と、言ってあげることができる。ディスコミュニケーションは乗り越えられ、道士郎のヒーロー性は回復される。
・この道士郎と健助の逆転現象と、ディスコミュニケーションの克服を、1万2千年と言うスパンでやってみたのがトップ2ですね。

トップ2第6話の話


・トップ2にでてくるトップレスって言うのは例えば『戯言』シリーズの天才たちや『エアマスター』のストリートファイターを矮小化して迷える子羊扱いしたよなもので、個性的で高い能力を持ち、自分勝手だ。こいつらの上に仮の神さまを置いて、よりよくしていこう、と言うのがまずは基本的な構図。
・トップレスがアガリを迎えず(内面が自分勝手な子供のまま)に力だけを増大させていくと、宇宙怪獣と同じものになっちゃうかもしれないんだとか。
・さて、トップ2のテーマというか、仮の神さまノノリリの巫女たるノノによって語られるメッセージは、ラルクたちトップレスに弱いものを助ける事を要請している。自分だけの世界から抜け出して他者からの視線を感じるだけでなく、弱い他者に手を差し伸べる度量を示して初めてヒーローであるらしい。
・トップ2は宇宙怪獣とノノとの間の、人類の未来をめぐる天使と悪魔のゲーム、みたいなところがある。宇宙怪獣の勝利条件は人類を滅ぼす事だけでなくて、仮に人類が宇宙怪獣を倒し得たとして、その過程で人類が宇宙怪獣と同質の存在になってしまえば、やはり宇宙怪獣の勝利といえる。
・だからこそラルクと人類は、ノノリリに「オカエリナサイ」を言う必要がある。仮の神さまとしてでも英雄としてでもない、普通の女の子としてのノノリリを救ってみせて初めて人類は宇宙怪獣に勝利したといえる。
・さて、ノノリリと、ラルクに代表されるトップ2時代の人類の他に、もうひとつ地球と言う要素がトップ2の世界には存在する。ノノは地球を宇宙怪獣にぶつける作戦を妨害したが、これはノノリリのためと言うだけではない。なんと言っても地球はコーチやキミコ、タカミが生きて死んだ場所だ。死者、あるいはご先祖さまもまた、神さまと並ぶもうひとつの絶対的な視線であり、また帰還途中のノノリリよりもさらに弱者であるともいえ、その想いを汲んでやらねば女がすたる。
・さらに、宇宙怪獣を倒すだけでなく、弱者を守って初めて勝利したといえる、と言うのであれば、トップ2開幕時点で地球への帰還途中のノノリリも、まだ真のヒーローになれていないといえるだろう。人類を守るという行為を完遂し、また一万二千年前の人々の残した想いに応えるには、ラルクたちの「オカエリナサイ」を受け取ってそれにただいまを返さなければならない。


・一万二千年もたったら人類は守る価値なんて無いものになりはてちゃってるかもしれない、という恐怖とその克服はトップ2の主軸のひとつで、宇宙怪獣になっちゃうってのはすごく良い表現だ。
・空から降ってくる2つの赤い光は、宇宙怪獣との戦いの完全勝利のしるし、人類が守られるものとしての価値を一万二千年守りきった事のあかしであり、また一時見失いかけた神さま的なものとの再契約のための聖霊降臨の火の舌である。そんでそれをうけた人は心にバスターマシンを持つようになる、とまあそんな寸法だ。

トップ2第3話の話


・ところで、やがてラルクたちに受け継がれる「オカエリナサイ」を言ったのはそもそもはユングだ。
・第3話のチコは、かつて友達を救えなかった悔いを抱えるものとして、ユングの物語もまた同時に背負っている。チコの救済とともにユングもまた救われている。
・時を越えて伝わった「ありがとう」の言葉は、同時にユングからノリコとカズミへ、また逆にノリコとカズミからユングへのものでもある。
・あと、道士郎のラス前回でのエリタンの「アリガトウ」ともあい通じるものがあるよな。
・また、この話でチコは形見のピアスを捨て、「あの人のためじゃない、あたしのために」と言う。そうして過去から抜け出す事によって、敵に打ち勝ち、さらには今までピアスだと思っていたものが一緒に雪遊びするための雪ダルマの顔だった事に気付く。一度思い出をうっちゃらなければ、チコは自分がそもそもからメッセージを誤読していた事に気付けなかったわけだ。
・であれば、トップ2では変化する事、独立する事は肯定されているわけだ。だから人類が地球を捨てるのは別に悪い事じゃないのだ。宇宙怪獣にぶつけようとしたのが悪かっただけで。
・変化しても独立してもいい、ただ義理は果たせよ、というのがトップ2世代の人類と地球との関係について製作陣が考えてる事なんで無いかと思う。

そのほか


・それはそうと俺はどうもラルクの考えてる事がよくわからん。どっかによい感想とか無いものかしらん。


・このエントリは伊藤悠さんの以下の記事を参考にして発想した部分がけっこうあります。


http://d.hatena.ne.jp/ityou/20050321

本来、コーチ(宗方仁@エースをねらえ)は選手たちの利害位置には居なくて、さらには死期が近く設定されていて利害自体を剥奪されているものなのだ。


http://d.hatena.ne.jp/ityou/20050505

ノノは自分自身は戦闘力をふるわぬ外付けの良心回路、いわば教育係で、「貴様俺の正義の味方をどうするつもりだ!」とか「貴様等はお姉様となる――偶像に祈りを捧げる力の司祭だ!」(フルメタルジャケットネタ。参照:軍曹語録)とか怒鳴りながら若僧たちを送り出していくキャラクターと見える。